2010年02月07日

(246)熊本城 武者返しの石垣

通潤橋では「目玉の放水」を観ることが出来なくて、私のドジさ振りをさらけ出してしまった。以前の写真があって「ヤレヤレ良かった」と思う次第だ。

皆さんにはこんな失敗談は有りませんか ?? 時間を見計らって今夜の宿にする熊本に着きました。

熊本城 1607年〜築城403年
熊本城は城域の周囲が約5.3km、面積    頬当御門.jpg
は 約98ha ほどの規模で、加藤清正が
築城し 難攻不落の城として有名です。

メーンとなっている入口が、頬当御門
(ほほあてごもん)この写真と難しい事
は熊本市の資料より。
顔の前に当てる甲冑の部品の名前から
名付けられたようです。

熊本城の見所を案内してくれる「お城
ガイド」の受け付けや、甲冑姿の武士が門前に立つ演出も行われて、初めての人はこの門からの入城がお薦めです。

偶然駐車した須戸口門から入ったのが幸いした。熊本城を難攻不落の名城と言わしめた「武者返し」の石垣(群)が、まるで入城を拒むように現れた。

難攻不落 武者返しの石垣
武者返しの石垣-1.jpg

築城から270年後 の西南戦争 (1877.明治10年)の時、薩軍が攻め来る前に原因不明の出火で天守閣、本丸御殿などを焼失した。
薩軍13000に対し熊本城は3500の兵士で50数日の籠城に耐え、薩軍は1人として城内に入ることなく撤退した。

鹿児島に撤退して城山で自刃した西郷隆盛が「清正公殿に負けたのだ」と言ったと伝えられる「武者返しの石垣」です。

武者返し-2.jpg 熊本城-1.jpg

熊本城の石垣は、始めは緩やかな勾配のものが上部に行くにしたがって垂直に近くなる「武者返し」と呼ばれる形状の造りを多用している。

山都町(旧・矢部町)にある通潤橋は、江戸時代末期(1852〜1854)にこの熊本城の武者返しの石垣をモデルに架けられた。

大天守閣 小天守閣
熊本城は日本三名城(一般的には名古屋城,姫路城)の一つに数えられる。熊本に本拠を置いた加藤清正によって築かれました。築城は1601年に始まり、1607年に完成したといわれています。

熊本城.jpg

現在の熊本城は1960年(昭和35年)の熊本国体開催と築城350年を期に、熊本市によって大天守閣と小天守閣、平櫓、塀などを歴史的資料を基にして忠実に再建したものです。
  大天守閣     清正公     小天守閣
見上げる大きさ.jpg 清正公.jpg 小天守閣.jpg

大天守閣から
熊本城 天守閣より.jpg

大天守閣から右が「宇土櫓」。木の間に人が居て「頬当御門」の一部が見える。

武者返しの石垣.jpg 武将.jpg 石垣.jpg

築城の名人加藤清正は、本丸を堅牢な石垣で囲んで守るに加えて、120以上の井戸を掘って籠城に備えた。深い所で約40m。現在17ヶ所が残っている。

本丸御殿
大広間.jpg 襖絵.jpg 奥座敷.jpg

本丸御殿は天守閣とは別のもので、藩主の居間や会見の場、台所等が備わる。
最奥には雅びやかな「昭君之間」(しょうくんのま)がある。


西南戦争 は明治10年2月15日 (1877年) の今から133年前。それは50年振りの大雪の中を13,000の薩軍が維新政府の熊本鎮台府がある熊本城目指して北上を始めた時に始まる。

西南戦争の火ぶたは2月21日に熊本城下に入って来た薩軍に対して、熊本城の砲台が砲撃を加えて始まった。翌22日の午前7時に薩軍は総攻撃を開始して城の四方から攻めたが城内に攻め入ることはできなかった。

23日、24日も同じように激戦が繰り広げられた。そして その後の攻撃も堅固な石垣に阻まれ薩軍の攻めあぐねが続いた。やがて維新政府の援軍が来てしまい薩軍は鹿児島に敗退した……籠城50数日……城は残った。
……その激しい歴史の日が、間もなくやってくる。




posted by 鳥さん at 16:30| Comment(0) | 九州の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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