2010年02月05日

(245)肥後石工匠の粋 通潤橋

肥後石工匠の粋 通潤橋

23日の早朝7時に大分を出発して高千穂峡に行き、そして通潤橋の放水時間に合わせて到着した。放水は土日祝の正午からで余裕を持っての到着。

通潤橋と布田保之助.jpg

右側に建つ庄屋の布田保之助が見守る通潤橋です。通潤橋が造られたのは 幕末の重大事件 ペリー黒船来航(1853年)の時でした。1852年12月から1年8ヶ月後に完成しました。

通潤橋の歴史.jpg 布田保之助.jpg

資料によると、白糸台地の窮乏を救おうと、地元の総庄屋であった布田保之助(写真)が水路橋の計画を立て、私財を出した上に足りない資金を調達した。

肥後石工匠の協力を得ての大工事が行なわれ、近隣農民もこぞって建設作業に参加したそうです。離れた川から6Kmの導水路を掘り、水路橋を架けた。
これにより白糸台地には100ヘクタールの水田が開けたそうです。

規模と美しさ 日本を代表する石橋
通潤橋 遠景.jpg
助け合う人の優しい心で 通潤橋は美しい

高さ20メートル、長さ75メートルもあり、江戸時代に造られた石橋としてはアーチの直径ならびに全体の高さは国内最大です。
常時人が渡れるもののあくまで水路のための橋であるため手摺等は一切無いが、これまで転落した人は一人もいないという。

使われた石材と石管 
通潤橋に使われた石と石管.jpg 通潤橋の解説絵.jpg

石をくり貫いた石管を繋ぎ水を通します。左の送水口から赤→が水の流れです。

156年前の風景です
通潤橋 送水口側.jpg

水はこちらの送水側の緩やかな坂を下って石橋を渡り、さらに対岸の坂を登って受水口へ出てくる。当時としては画期的な通水橋でした。

3本の送水口水門.jpg 通潤橋 止水栓.jpg

三本の送水路と水門。水はここから石管に入って行きます。右は石橋中央にある放水口の止水栓です。拡大すると小さな放水口に僅かに下の川が見えます。
放水口
通潤橋 放水口.jpg 通潤橋 あれれ!-1.jpg

放水口は 石管の通水路が3本なので川の上流側に2個、反対側に1個あります。
この造り方も現在の観光には打って付けです。 あれれ、誰かが写っているよ。

3本の石管.jpg

通潤橋は水を通すために造られた水路橋であり、国の重要文化財と疎水100選にも選ばれています。

受水口の池
受水口(池).jpg

石管の通水路を通って来た水は逆サイフォンの原理とやらでここに溢れ出ます。

通潤橋(対岸).jpg

    美しい通潤橋
しばしの間 見とれました

通潤橋の下部.jpg
熊本城の武者返しの技です

訪れた日は時々小雪の舞う寒い日でした。そうそう肝心の放水のことでしたね。
何とドジで何と間抜けな、放水があると信じて調べなかった♪私馬鹿よね〜♪

1月〜3月の放水は無しでした〜。ここまで読んで戴いたのに申し訳ないですね〜。 まっ、こんなドジな話しも時にはアリですな〜、あははは。
1回5000円だった有料放水(3月から開始)は今回10.000円になっていた。

  放水の中止 そんなにがっかりしないで
もう少し先に読み進んで下さい


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この石橋はアーチ型の木枠を作った上に石を置き、橋が完成したら木枠を外す工法により建造された。
木枠を外す最終段階には橋の中央に白装束を纏った布田保之助が座し、石工頭も切腹用の短刀を懐にして臨んだと言います。
領民に対する責任感がそうさせたのでしょう。

庄屋名主といえば今の村長か町長クラスでこんな凄いことをやってくれた。

以下は前回旅行の 通潤橋 です。通潤橋の放水は豪快さだけではなく、当時の人たちの喜びの表現が放水となって今も続いていると思いました。

第2部 No77の記事と放水写真を、どうぞ拡大してお楽しみ下さい。


http://in-sky-toriyama.seesaa.net/article/56261267.html



posted by 鳥さん at 04:00| Comment(0) | 九州の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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